人類の歴史には多くのifがあり、もし実現していたら世界は大きく変わっていただろう…と感じさせるような「実現しなかった出来事」は数え切れないほど存在します。
WWEスーパースターとして大活躍し、俳優転向後はハリウッドで最も稼ぐ俳優になったザ・ロック(ドウェイン・ジョンソン)は、出演したPodcast番組「The Joe Rogan Experience」の中で、1997年頃に検討していた「転向」について語りました。
それは、同年に日本で生まれた総合格闘技イベントPRIDEへの参戦です。
あの頃、俺は年に235日も試合をして、15万ドルを稼いでいた。1試合でいくらの稼ぎになるかを計算してみてくれよ(彼の年間試合数が一番多かった年は1998年で、202試合。年間15万ドルの稼ぎと仮定すると、1試合あたり約740ドルのファイトマネー)。
俺の耳にこんな話が聞こえてくるようになった。「なあ、PRIDEに出ているあいつらは、25万ドル、35万ドル、50万ドルも稼いでいるぞ」って。
あの頃の俺が考えていたのは、「クソ、俺がWWF(WWE)で成功するとは思えない。ファンは俺にブーイングして、会場から追い出そうとしてくる。自分自身でいられる場所じゃない。彼らは俺に笑うことを求めてくるが、クソッタレ相手に笑いたくねえよ。それは俺じゃない」ってことだ。
そして、その頃にWWFで一緒に戦っていて、UFCの経験を持つケン・シャムロックと話をするようになった。PRIDEに参戦していたマーク・ケアーに会って、「なあ、PRIDEについて教えてくれないか?」と聞いたこともあるよ。
俺の頭にはこんな考えがあった。「まあ、PRIDEに行くべきなんだろうな。MMAのトレーニングをしてPRIDEに行って、金を稼ぐ。無理やり笑う必要もなくなるかもしれない」ってね。
この後、ビンス・マクマホンは彼のヒールターンを決断し、ヒールユニット「ネーション・オブ・ドミネーション」に加入させました。彼はここで大ブレイクし、時代を代表するスーパースターへの道を歩んでいくことになります。
ビンスの決断がなければ、彼はPRIDEにやってきていたかもしれません。なんというifでしょうか…。ヒールターンのチャンスをものにしたロック様の才能、そしてベビーフェイスとしてうまくいかない様子を見てヒールターンさせたビンスの才覚がスーパースターを生み出しました。
下の動画は、ロック様のヒールターンの瞬間です。このプロモが彼の人生を変えました。