2008年に初来日し、飯伏幸太との運命的な出会いを果たしたケニー・オメガ。しかし、彼が日本にたどり着くまでの道は平坦ではありませんでした。
様々なインディ団体に参戦する中で、彼はWWEの育成システムの中でトレーニングを積んでいたこともあります。この時期、つまり2005年から2006年にかけてWWE傘下のDSWに参戦していた頃の記憶は苦いもので、彼の口からポジティブに語られることはほとんどありません。
2022年末にMonthly Puroresuのインタビューに応じた彼は、DSW時代を振り返って次のように語りました。
ミズーリ州のハーリー・レイスのキャンプに行ったことがあるんだけど、それはプロレスリング・ノアの道場に参加する機会を得るためだったんだ。これまでに学んできたことはすべて忘れて、ヤング・ボーイとしてやり直そうと思ってね。でも、結局、俺はジョニー・エース(ジョン・ロウリネイティス)に認められて、WWEに行くことになった。「これは別のチャンスで、もしかしたら俺の人生が導いてくれるかもしれない。無視はできないな」と思ったよ。思っていたような環境ではなかったけど、素晴らしい機会だったと思ってる。
WWEの育成システムであるDSWは俺に合わなかった。「プロレスに向いてないのかもしれないな」と思ったよ。最高レベルのプロレスは、情熱よりもビジネスの世界になるんだな、と考えたから。俺は、自分が思っているようなビジネスマンじゃないのかもしれない、このレベルでやるべきじゃないのかもしれない、なんて思ったりした。物事が細かく管理されるような世界は、俺が夢中になったプロレスではない。
プロレスというビジネスのことを理解しているのかどうか、自信が持てなかった。偉大なレスラーたちが成功した理由は、彼らがとてもユニークで、自分たちのやり方で特別なアスリートとしてやっていて、自分のキャラクターを任されているからだと思っててさ。そして、彼らの素晴らしいアイデアやプロレスの象徴的な瞬間は、すべて彼ら自信が考え出したものだと思ってた。今振り返ると、実際にそうだったんだろうと思うよ。
でも、WWEの育成システムで叩き込まれるのは、「No, 君は自分自身を持つな。我々が所有する人間、所有物なんだから!俺たちが指示することをやりなさい!指示通りに話しなさい。もし、『違うことを話すべきだ』みたいな考えを持ったら、それは間違いだぞ!」ってことでさ。
その頃の心配事は、「もしこれがプロレスだというのなら、あるいは、プロレスがこういうやり方になったというのなら、もしかしたら俺が恋に落ちたものとは違うのかもしれないな。子どもの頃に夢見ていたものとは違うのかも。プロレス以外のことも考えなきゃいけないかもしれない。あるいは、あきらめるか」って感じだったよ。
こうした不安を持ったこともあるケニーが、飯伏という自由な存在に出会った時の衝撃は相当なものだったでしょうね。あの時があるから今の考え方、やり方がある。経験は無駄にはなりません。